エレベーターのドアが閉まった後も朱莉の心臓はドキドキと早鐘を打っていた。(い、今の女性は姫宮さん……。何故一人でここに……? やっぱり二人はもう……?)思わず目じりに涙が浮かびそうになり、朱莉はゴシゴシと目を擦った。姫宮のことは気がかりだが、今は安西に呼ばれている。彼の話を聞きに行くのが先だ。朱莉は再び帽子を目深にかぶり、コートの襟を立てる。傘をさして、駅へ向かって歩き始めた――**** 結局、朱莉はカフェには寄らずに真っすぐ安西の事務所へやって来た。姫宮を億ションで見かけてしまったショックで食欲など皆無だったからだ。傘を閉じて狭い階段を登り、インターホンを鳴らした。するとすぐにドアが開き、安西が顔を覗かせた。「朱莉さん。雨の中お呼び立てしまい、申し訳ございません」事務所の中へ入ると安西が謝罪してきた。「いえ、とんでもありません。むしろ雨の中、働いていらっしゃる調査員の方達に申し訳ないくらいです」「ハハハ……それは別に気になさらないで下さい。それが我々の仕事なのですから。さ、どうぞソファにおかけください」安西は朱莉にソファを進めてきた。朱莉は腰かけると安西に尋ねた。「それで新しく掴んだ情報と言うのは何でしょうか?」「ところで朱莉さん。コーヒーはいかがですか? 実はいい豆が手に入ったんですよ。よろしければ一杯どうですか?」「本当ですか? 嬉しいです。実は丁度コーヒーが飲みたいと思っていたので」「では少しお待ちくださいね」安西はコーヒーミルを持ってくると、そこに豆を入れて、ゆっくりと挽き始める。「すごい……本格的なんですね」朱莉は感心して、その様子を見つめる。「ハハハ……実は大学を辞めた時、興信所かカフェを経営するか迷ったんですよ」「それは……またすごいですね……」(全く共通点の無い職業のどちらかを選択しようとしていたなんて。才能がある人なんだ……)朱莉は感心してしまった。「さあ、どうぞ」朱莉は早速挽きたてのコーヒーを口に入れる。「おいしいです……。それにあまり苦みが無いですね」朱莉の言葉に安西は笑みを浮かべた。「おや? 朱莉さんはコーヒーの味が分かるのですか? 実はこの豆は粗挽きなんですよ。粗く豆を挽くと苦みが抑えられて軽い味わいになるんですよ」「そうなんですか? でも、本当に美味しいです」朱莉はゆっくりコー
「また、お1人だけで億ションの中へ入っていく事もありますが、ものの20分程で出て来ることがほとんどですね」「そうなんですか……?」(え……? そんな短い時間で一体姫宮さんは何をしにきているんだろう……?)「そう言えば話は変わりますが、朱莉さん。今の秘書、姫宮さんになる前は九条琢磨という男性が鳴海翔さんの秘書だったようですね?」朱莉は琢磨の名前が出てきたのでピクリと反応した。「は、はい……。九条さんが秘書をしておりました」「それではニュースはご覧になりましたか?」「はい。翔さんから連絡をいただいたいので。でも正直驚きました。九条さんが東京へ戻られてからすぐに音信不通になってしまって、翔さんから九条さんをクビにした話を聞かされたんです。それがまさか……」「ラージウェアハウスの新社長に任命されて、驚いたと?」「はい。それに鳴海グループに敵対心があるような発言をしたことも含めてです」「そうですね。入社されて一月半での新社長抜擢。まさに異例の出世スピードですし、あの発言は驚きますね。我々で独自に調べたのですがどうやらこの九条琢磨という男性は半年ほど前から、この会社にヘッドハンティングされていたそうですね。しかも好待遇で。ですが、ずっと彼は断っていたそうです」「それは翔さんと九条さんは親友同士でしたから当然でしょうね。ですが、結局翔さんは九条さんをクビに……」「ええ、ですが九条琢磨さんは、こう言っていたらしいですよ。『守らなければいけない人がいるから今はこの会社を去ることは出来ない』と」「守らなければいけない人……?」一体誰のことだろう?「多分……朱莉さん。貴女のことではないですか?」安西の言葉に朱莉は顔を上げた。「え……? 私……ですか?」「ええ。ヘッドハンティングの相手にそれとなく女性のことを匂わす台詞を口にしていたそうですから」(そんな……まさか……)朱莉には信じられなかった。「まだ日数を掛けて調査していないので、正確なことは言えませんが、ひょっとすると鳴海翔さんと九条琢磨さんは貴女と明日香君のことで意見が対立していたのではないでしょうか?」「確かに九条さんは私のことを色々助けてくれていました。それに私に謝っていました。私を契約婚に巻き込んだのは自分の責任だと」「恐らく、鳴海翔さんと九条琢磨さんは契約婚のことで日頃から対立し
朱莉が東京から沖縄へ戻り、早いもので1週間が経過していた。そして今日は明日香の退院日である。「思っていた以上に早く退院出来て良かったですね」退院手続きを済ませて来た朱莉は、待合室に座っていた明日香の元へ戻ると声をかけた。「ええ、そうね。最初の話ではもう少し時間がかかるって言われていたけど」明日香は少し浮かない顔で答える。「どうしたんですか? 折角退院できると言うのに、何だか顔の色が優れないようですけど?」すると明日香は視線を落とした。「だって……今日、これから翔と翔の新しい秘書が沖縄へ来るのよ? 翔に会えるのは久しぶりで嬉しいけど、あの姫宮という女性に会うのは……正直に言うと気が重いわ」「大丈夫ですよ、明日香さん。結局安西先生の興信所でもあれから詳しく調べていただいて、お2人は只の副社長と秘書の関係だったと言うことが分かったのですから。それに東京からわざわざ長期滞在型のホテルを予約してくれたのも姫宮さんですし」朱莉は明日香を元気づけるように明るい笑顔で言う。「朱莉さん……」明日香は朱莉の顔をじっと見つめた。「さて、それじゃ明日香さん。早速そのホテルへ行きましょう」「ええ、そうね」 並んで歩きながら朱莉は明日香に話しかけた。「大分お腹が目立ってきましたね?」「ええ。もう6か月だから。昨日も実は夜眠っていたら、お腹の中を蹴られたのよ」「そうですか。きっと元気な男の子が生まれてきますよ」実はこの間のエコーの検査で、はっきり性別が判明したのだ。「そうね。翔も男の子と聞いて喜んでいたわ。鳴海グループの跡取りが決定したなって」「でも、翔さんのことですから男の子でも女の子でもどちらでも構わないと思っているんじゃないですか?」朱莉の言葉に明日香も頷く。「ええ……まあ確かに2度目に私が妊娠した時にすごく喜んでくれたしね……。でも……」明日香の顔が曇る。「どうしたんですか?」「……やっぱり私は母親失格になりそうね。だって、エコーの画像を見ても、お腹の中で動いても……この子が愛しいって感情が……まだ持てないのだから」「明日香さん……」朱莉も最近、明日香自身から朱莉の出自については聞かされていた。その話を聞かされた時は、何て気の毒な境遇だったのだろうと胸を痛めた。 そんな話をしている内に、2人は駐車場に着いた。「明日香さん。
それから約1時間後——2人はこれから明日香が滞在するホテルの部屋の中にいた。「うわあ……すごく素敵な部屋ですね。姫宮さんがこのホテルを予約したんですよね」朱莉は部屋を見渡した。2LDKの広々とした客室は全室オーシャンビューになっている。食事は部屋で取ることも出来るし、レストランを利用することも可能だ。クリーニングは勿論、掃除まで全てホテルが世話をしてくれるので、家政婦の話は無しになったのだ。「ええ。そうね」しかし、明日香の顔はどこかうかない。「明日香さん……?」朱莉は怪訝そうに声をかけた。「い、いえ。何でも無いわ。朱莉さん、今日まで本当にありがとう。貴女にはお世話になったから私の方から臨時ボーナスとしてネットでお金を口座に振り込んでおいたから、後で確認して?」明日香の言葉に朱莉は驚いた。「何言ってるんですか明日香さん。私は別にお金の為にやって来た訳ではありませんよ? ただ、明日香さんの力に……」「ええ。貴女なら、そう言うと思っていたわ。だけどこれは私の気持ちだから。お金でしか朱莉さんにお礼する手段が無くて……だから何も言わずに受け取って頂戴」あまりにも明日香の真剣な様子に朱莉は押されてしまい……。「分かりました。それでは受け取らせていただきます」そう、返事をするのだった。「明日香さん。それでは、私はこの辺で失礼しますね。16時には翔さん達が那覇空港に到着すると思うので、迎えに行く用事もありますから」朱莉はショルダーバックを肩から下げると立ち上がった。それを聞いた明日香は眉をひそめた。「人のこと言えないけど……翔は貴女に迎えを頼んだの?」「はい。私の買った車も見たいと話していられたので」「そうなの? なら、いっそ翔に運転して貰うのもいいんじゃない? あんなに見事な女性用にカスタマイズされた車を翔が運転する姿は見ものだわ」明日香がクスクス笑う姿を見て朱莉は思った。(良かった。明日香さん、少し元気が出てきたみたい)「明日香さん。それではまた何かありましたらメッセージを送って下さい。それでは翔さんと姫宮さんをこちらにお連れするまでお待ちくださいね」「ありがとう、朱莉さん」 朱莉は客室を後にして腕時計を見た。時刻は13時。後3時間後には翔が姫宮を連れて沖縄へとやって来るのだ。(姫宮さん……)朱莉は姫宮の姿を思い浮かべた。
16時―― 朱莉は那覇空港で翔と姫宮が来るのを待っていた。やがて翔が秘書の姫宮を伴って、ついに朱莉の待つ到着ロビーへとやって来た。(とうとう姫宮さんに……!)朱莉の心臓は緊張と不安で耳障りな位に早鐘を打っている。翔は笑顔で朱莉の前にやって来た。「久しぶりだね、朱莉さん。元気そうで何よりだよ。明日香のことでは朱莉さんに色々世話になったようで本当に感謝しているんだ。与えられた務めをきっちり果たしてくれている朱莉さんに感謝の気持ちとして臨時ボーナスを口座に振り込ませて貰ったよ。後で確認しておいてくれ」その言葉に朱莉は少なからず傷付いた。(与えられた務め……臨時ボーナス……。別に私はそんなつもりで明日香さんのお世話をしていたつもりじゃなかったんだけど。ただ、明日香さんの力になってあげたかっただけなのに。でも翔先輩はそんな風には取ってくれなかったのかな……)しかし、そんな思いをおくびに出さず朱莉はお礼を述べた。「いつもお気遣いいただき、ありがとうございます」「いや。朱莉さんは契約書以上の務めを果たしてくれているんだから、報酬を与えるのは当然のことさ。それじゃ改めて紹介するよ。こちらが新しい秘書の姫宮静香さんだ」翔は自分の隣に立っている姫宮を紹介した。「初めまして、鳴海朱莉様。この度副社長の専属秘書となりました姫宮静香と申します。どうぞよろしくお願いいたします」「は、はい。鳴海朱莉と申します。こちらこそどうぞよろしくお願いいたします」朱莉は慌てて頭を下げて挨拶をし、改めて姫宮静香という女性を見つめた。ロングヘアは一つにまとめ、髪をアップにし、Vネックのフレンチスリーブの膝丈のワンピースにブルーのパンプスを履いた姿は正に仕事の良く出来る女性のように朱莉の目には映った。(この人が新しい翔さんの秘書……。私とは全然違うタイプの女性だわ……。少し明日香さんに雰囲気が似ている気がする……)朱莉は羨望の眼差しで姫宮を見つめた。2人の簡単な挨拶を見届けた翔が再び朱莉に声をかけてきた。「姫宮さんには今、明日香の出産先について、色々力になって貰っている。彼女は本当に仕事が良く出来て、信頼出来るパートナーなんだ。朱莉さんも何か困ったことがあれば彼女に相談するといい」「はい、分かりました。姫宮さん、これからどうぞよろしくお願いいたします」朱莉は丁寧に頭を下
翔と姫宮がロビーで打ち合わせをしながら朱莉の連絡を待っていると不意に翔のスマホが鳴った。「もしもし、朱莉さん? ……うん。……分かった。ありがとう、すぐにそっちへ向かおう」そして電話を切ると翔は姫宮に声をかけた。「姫宮さん。朱莉さんが車を回してくれたそうだから外に出よう」「はい、そうですね。翔さん」姫宮と翔は同時に立ち上がった。「それじゃ、行こう」歩きながら、姫宮は翔に尋ねた。「翔さん、朱莉さんのことをどのようにお考えですか?」「朱莉さん……? うん……そうだな……。彼女なら生まれて来る俺と明日香の子供を愛情をかけて育ててくれそうだと思っているよ」「そうですか。契約書では残りの婚姻期間は5年となっておりますが、延長の可能性はありそうですか?」「まさか! そんなことは絶対にありえない。婚姻期間が延びることは無いよ。早く自由の身にしてあげるのが朱莉さんの為なんだから」そんな翔の横顔を見つめながら姫宮は小さく呟いた。「……それが本当に朱莉さんの為になるのでしょうか……」「え? 何か言ったかい?」翔は姫宮を振り返る。「いいえ、何でもありません」姫宮は表情を崩さずに答えた—― **** 朱莉の運転する車の後部座席に座った翔が車内を見渡している。「朱莉さんの運転する車、外装も女性向きだけど、内装も女性向きだね。うん、色合いがすごく素敵だ」「はい、外装や内装が女性向きにカスタマイズされていて、すごく気にいったんです。ありがとうございます」朱莉は笑顔で答える。「何言ってるんだい、これも朱莉さんに対する必要な投資だよ。何せ子供を育てるにはやはり車は必要だからね。これからもよろしく頼むね」「はい、お任せください」投資……その言葉に朱莉の胸はチクリと痛んだ。朱莉は答えながらバックミラーでチラリと姫宮の様子を伺うと彼女は何か英文で書かれた書類に目を通している。(英語の文章……やっぱりすごく仕事が出来る女性なんだ)朱莉は羨望の眼差しで姫宮を見て……心の中で溜息をつくのだった―― **** 「こちらが明日香さんのいらっしゃる客室です」朱莉が案内すると姫宮が言った。「副社長、明日香さんとつと姫宮がロビーで打ち合わせをしながら朱莉の連絡を待っていると不意に翔のスマホが鳴った。「もしもし、朱莉さん? ……うん。……分かった。ありが
「明日香、会いたかった!」翔は明日香のいる客室に入り、駆け寄って力強く抱きしめてきた。「ちょ、ちょっと……翔!」明日香の窘めるような声に翔は慌てて明日香から離れた。「ああ……ごめん、明日香。そう言えばお腹の中に子供がいたのにすまなかった。大丈夫だったかい?」「ううん。それは大丈夫だけど……あら? ところで朱莉さんは?」「朱莉さんならマンションに帰ったけど?」それを聞いた明日香の目が険しくなった。「翔……まさか朱莉さんを追い返したの!?」「え? まさか! 彼女の方から遠慮してマンションへ帰ったんだよ。新しい秘書が俺と明日香で積る話があるだろうから、2人きりで話をしてもらおうと言ったからだ」「そうだったの……。朱莉さんならいて別にいても構わなかったのに」明日香は何処かイラついた様子で爪を噛んだ。「おい、明日香。お前本気で言ってるのか? とても以前のお前なら朱莉さんのことをそんな風には……」すると明日香がポツリと言った。「……初めてだったのよ。翔以外の人に……誰かに親切にして貰ったのは……」「明日香?」「朱莉さんだけだったのよ。こんな捻くれた私に赤の他人なのに親切にしてくれたのは。だからもう一度お礼を言いたかったのに。それに朱莉さんは今日は朝から私の退院の手続きに付き合ってくれて、ここまで連れて来てくれたのよ。疲れているはずなのに、貴方の出迎え迄させて車でここまで運転させるなんて」「あ、明日香……」翔は明日香の話を信じられない思いで聞いていた。あんなに他者を思いやる気持ちに欠けていた明日香が誰かに対してこんな風に思うようになるとは。「ねえ。知ってた? このホテルから朱莉さんのマンション。どの位離れているか、どの位時間がかかるのか……」「……」「朱莉さんの住んでいるのは那覇市、ここは名護市。車で1時間以上かかるのよ? 疲れているはずなのに……。私は悪いから遠慮したのよ。だけど朱莉さんが自分に退院の日のお迎えをさせてくれって言うから。そこにいくと翔、貴方は何? 自分から朱莉さんのお迎えを頼んだんでしょう?」何処か詰るように明日香は言う。「あ、ああ……そうだ……」翔が重たい口を開く。「翔、貴方は朱莉さんを自分の従業員のように扱っているけどもう少し朱莉さんに気を遣ってあげて。もっとも私もこんなこと言えた義理じゃないけどね。私は最
帰りの車中、朱莉は運転しながら姫宮のことを考えていた。「一体どういうことなんだろう? 姫宮さんは翔先輩の完全な味方だと思っていたけど、やけに否定的な言い方をしているように聞こえたのは、私の気のせい……?」思わず口に出して呟いてしまった。 **** その夜――朱莉がネイビーを膝に抱えながら、ネット配信映画を観ていた時、朱莉の個人用スマホが着信を知らせた。「ひょっとして翔先輩かな?」しかし、朱莉はその着信相手を見て凍り付いた。それは京極からの電話だったのである。実はあの日、安西の事務所で京極と姫宮が並んで歩いている画像を見せられたその夜、京極から電話がかかって来たのだ。しかし、京極と姫宮が一緒に写っているあの写真が気がかりで、京極から何か決定的な話を聞かされるのでは無いかと思うと、それが怖くて、咄嗟に電話口で伝えたのだ。今、通信教育のレポート提出に追われていて、忙しいのでしばらくは電話もメッセージも遠慮してもらいたいと……。それを告げた時の、電話越しから聞こえる悲し気な声が朱莉の心を揺さぶった。しかし……それでも朱莉は京極と話をするのが怖くて頑なに連絡を拒んだのである。それがよりにもよって、翔と姫宮が沖縄へやって来た日に電話がかかってくるなんて。あまりにも偶然が重なり過ぎて、再び朱莉は疑心暗鬼に陥ってしまった。(お願い……! 早く……電話が切れて……!)朱莉は耳を塞いだ。(ごめんなさい、京極さん。私……まだ貴方の電話に出る勇気が……!)暫く鳴り響いたスマホはやがて静かになった。「よ、良かった……」朱莉は安堵の溜息をついたが、時を置かずして再びスマホが鳴り響いた。(京極さん……)考えてみれば、京極は忙しい身だ。それなのにこうして朱莉に電話をかけてきている。(私の為に京極さんの貴重な時間を奪う訳にはいかない……)朱莉は観念して、電話をタップした。「はい、もしもし……」『朱莉さん!?』電話に出た途端、京極の切羽詰まった声が受話器越しから聞こえてきた。「はい、朱莉です。どうも……ご無沙汰しておりました」すると、京極の安堵したため息が聞こえてきた。『良かった……中々電話に出てくれなかったからてっきり何かあったのでは無いかと思って心配しました。でも何も無かったんですね? 安心しましたよ』その声は本当に朱莉の身を案じているよ
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると
明日香が10年分の記憶を失い、高校生だと思い込んでいる話は朱莉にとってあまりにもショッキングな話であった。「朱莉さん、大丈夫かい? 顔色が真っ青だ」「は、はい。大丈夫です。でもそうなると今一番大変なのは翔先輩ではありませんか?」朱莉は翔のことが心配でならなかった。あれ程明日香を溺愛しているのだ。17歳の時、翔と明日香は交際していたのだろうか? ただ、少なくとも朱莉が入学した当時の2人は交際しているように見えた。「朱莉さん、翔が心配かい?」琢磨が少し悲し気な表情で尋ねてきた。「はい、とても心配です。勿論一番心配なのは明日香さんですけど」「やっぱり朱莉さんは優しい人なんだね」(あの2人に今迄散々蔑ろにされてきたのに……それらを全て許して今は2人をこんなに気に掛けて……)「何故翔さんは九条さんに連絡を入れてきたのですか? それに、どうして九条さんから私に説明することになったのでしょう?」朱莉は琢磨の瞳をじっと見つめた。「俺も、2日前に翔から突然メッセージが届いたんだよ。あの時は驚いた。翔と決別した時に、アイツはこう言ったんだよ。互いに二度と連絡を取り合うのをやめにしようと。こちらとしてはそんなつもりは最初から無かったけど、翔がそこまで言うのならと思って自分から二度と連絡するつもりは無かったんだ。それなのに突然……」そして、琢磨は近くを通りかかった店員に追加でマティーニを注文すると朱莉に尋ねた。「朱莉さんはどうする?」「それでは私はアルコール度数が低めのお酒で」「それなら、『ミモザ』なんてどうかな? シャンパンをオレンジジュースで割った飲み物だよ。アルコール度数も8度前後で、他のカクテルに比べると度数が低い」琢磨はメニュー表を見ながら朱莉に言った。「はい、ではそちらを頂きます」「かしこまりました」店員は頭を下げると、その場を立ち去っていく。すると琢磨が再び口を開いた。「明日香ちゃんは自分を高校生だと思い込んでいるから、当然翔の隣にはいつも俺がいるものだと思い込んでいるらしいんだ。考えてみればあの頃の俺達はずっと3人で一緒に高校生活を過ごしてきたようなものだからね。それで明日香ちゃんが目を覚ました時、翔に俺のことを聞いてきたらしい。『琢磨は何処にいるの?』って。それで一計を案じた翔が明日香ちゃんを安心させる為に、もう一度3人で会いた
「九条さんが【ラージウェアハウス】の新社長に就任した話はニュースで知ったんです。あの時九条さん言ってましたよね? 鳴海グループにも負けない程のブランド企業にするって」「ああ、あの話か……。あれは……まあもう1人の社長にああいうふうに言えって半ば命令されたからさ。自分の意思で言った訳じゃ無いが正直、気分は良かったな」琢磨は笑みを浮かべる。「あの翔に一泡吹かせることが出来たみたいだし。初めはテレビインタビューなんて御免だと思ったけどね。大分、翔の奴は慌てたらしい」朱莉もカクテルを飲むと琢磨を見た。「え? その話は誰から聞いたんですか?」「会長だよ」琢磨の意外な答えに朱莉は驚いた。「九条さんは会長と個人的に連絡を取り合っていたのですか?」「ああ、そうだよ。実は以前から会長に秘書にならないかと誘われていたんだ。でも俺は翔の秘書だったから断っていたんだけどね」「そうだったんですか」あまりにも驚く話ばかりで朱莉の頭はついていくのがやっとだった。「それにしても朱莉さんも随分雰囲気が変わったよね? 前よりは積極的になったようだし、お酒も飲めるようになってきた。……ひょっとして沖縄で何かあったのかい?」琢磨の質問に朱莉は一瞬迷ったが、決めた。(九条さんだって話をしてくれたのだから、私も航君のこと、話さなくちゃ)「実は……」朱莉は沖縄での航との出会い、そして別れまでを話した。もっとも名前を明かす事はしなかったが。一方の琢磨は朱莉の話を呆然と聞いていた。(まさか朱莉さんが男と同居していたなんて。しかもあんなに頬を染めて嬉しそうに話してくるってことは……その男、朱莉さんに取って特別な存在だったのか?)朱莉が沖縄で男性と同居をしていた……その事実はあまりに衝撃的で、琢磨の心を大きく揺さぶった。「それでその彼とは東京へ戻ってからは音信不通……ってことなのかい?」内心の動揺を隠しながら琢磨は尋ねた。「はい。そうです。だから条さんとは連絡が取れて嬉しかったです。ありがとうございました」お酒でうっすら赤く染まった頬ではにかみながら琢磨にお礼を言う朱莉の姿は琢磨の心を大きく揺さぶった。「そ、そんな笑顔で喜んでくれるなんて思いもしなかったよ。でも……そうか。朱莉さんが以前よりお酒を飲めるようになったのはその彼のお陰なんだね?」「そうですね……。きっとそう